夕食のあとかたづけをしていると、チャイムが鳴って「こんばんわー、瑠美でーす」と
いう声がした。僕がドア・ロックをはずすと瑠美さんは自分でドアを開けて上がりこんで
きた。
「聞かせてもらいにきたわよ。片付け早く済ませなさいよ」
瑠美さんは僕の耳元でささやいた。
声を聞きつけた母が居間から顔をのぞかせた。
「瑠美ちゃん、いらっしゃい」
「頂き物のお菓子があるの」と言いながら瑠美さんは居間にはいった。
「偲、写真を持っていらっしゃい」
母が言った。
「何の写真?」
「お相手の写真に決まってるでしょう」
「いますぐ?」
「そう」
いつも断りもなく、僕の部屋に入っているだから、自分でとってくればいいのにと思っ
たが、なにも言わず、
「へい、へい」
僕はそういうと自分の部屋から遙さんの写真を持って、居間に入った。
「なるべく早く片付けていらっしゃい。それとお茶道具だけは先にしてね」
「はい」
人使いの荒い母親だなあと思いながら、キッチンに戻って、手早く急須と湯呑みを洗っ
て、早く乾くように熱湯をかけまわし、ほかのものにとりかかった。
平日の夕食のあと片付けは僕と父の役目で、土日祝日は食事のしたくも、片付けも僕と
父が交代でやっていた。
身の回りのことを自分でできて初めて一人前の人間と言える、というのが母の持論だっ
た。僕の考えでは、半分は母自身が自分の仕事を減らすための口実ではないかと思ってい
るのだが、僕が物心ついたときには、父がやっていたし、僕も自然と何でもできるように
しつけられたので、不満はなかった。その結果、母の自由になる時間は多く、ボランティ
ア活動だ、旅行だ、水泳だと出歩くことが多かった。
僕は茶道具だけは先に持ってゆき、後のものをすべて片付けて居間に向かった。
「お菓子をいただきましょうね」
母が新しいお茶を入れながら言った。
「みんな聞いたわよ。昨日、振られたと思って不貞寝しちゃったんですって」
さっそく瑠美さんが一番いたいところをついてきた。
「不貞寝なんてしてないよ」
「なに言ってるの、亜紀さんが帰ってきて声をかけたって出てこなかったそうじゃないの」
「いや、昨日は疲れたから」
「お見合いで疲れるわけないでしょ」
「お菓子を食べよう」
僕は態勢が不利になってきたので、挽回を図ろうとしたが、所詮はお菓子を食べ終わる
までの一時しのぎに過ぎなかった。
「振られたと勘違いして、不貞寝するほどじゃ、一目ぼれだったんだ」
「不貞寝じゃないし、一目ぼれなんてことはないよ」
僕の抗弁など気にもかけず、瑠美さんは続けた。
「偲が一目ぼれするのも無理ないよね、このひと美人だし。....亜紀さんの印象はどう?」
「そうね、写真で見るよりはやさしそうで、しっかりとしていそうだった。ふけて見える
わけじゃないけど、偲より年上に見えたわ」
「偲はふにゃふにゃしてるから、しっかりとしていてリードしてくれるような人がいいの
よ」
「ふにゃふにゃなんてしてないよ」
僕は瑠美さんの言葉に反発して言った。
「瑠美ちゃんの言うとおりよね、お似合いの人だと思うわ」
息子が悪く言われてるのに、母親があっさりと認めてどうすんのよ、と僕が思ってもど
うすることもできなかった。母は昔から瑠美さんを信頼していて、僕の言うことより彼女
のいうことの方を正しいと思っていた。
「ちょっと頼りない旦那にはしっかりした奥さん、これがいいのよ。うちのようにね」
瑠美さんのところの勝弘君は、学年は一年下だが実際は3ヶ月ほどしか違わないのに、
彼女に甘えきっていた。
「うちもそれでうまくいってんのよね。洋平さん」
こんな母の言葉に対して、「そうですね。亜紀さんの言うとおりにしていれば間違いはな
いですから」と父は答えた。
父はおとなしい人で、5歳年下の母の言うことに逆らったことはなかった。
「振られたと思った相手から、お付き合いしたいと言われたにしては、さっきから見てて
もあまりうれしそうではないわね」
瑠美さんは僕の態度から何かを察したらしく、真顔になっていった。
「ねえ、偲、どこへ誘っていいか判らなくて悩んでいるんでしょう」
僕は、何で女というのは僕の心のうちを読んでしまうんだろうと思って、声が出なかっ
た。
「偲は女の子とデートしたことなんかないから無理ないよね、ここはこの瑠美さんがひと
肌脱がなきゃしょうがないか」
確かに思い悩んでいて、瑠美さんに相談するしかないかとは思っていたのだけれど、こ
こであまりあっさりと頼んでしまうのもみっともないと思って、「いや、べつにそんなこと
は」と僕は小声で言った。
「いいって、いいって。お姉さんに任せておきなさい」
「瑠美ちゃんなら頼もしいわ。わたしも偲がどこか知ってるかしらと心配してたの」
僕が頼まないでも勝手にそっちの方向に動き出してしまった。
瑠美さんがなにか言おうとしたとき電話が鳴った。母がそばにおいてある子機を取り上
げた。
話のしかたから遙さんかららしいと感じたとき、母が子機を差し出して遙さんよと言っ
た。僕は子機を受け取ると、僕の部屋に行こうと思って、立ち上がろうとした。僕は腰を
浮かしかけたが、瑠美さんが僕の左腕をつかみ下に引きながら小声で言った。
「ここで話しなさい」
ここで争ってもしかたがないし、瑠美さんは見かけによらず強くて僕が瑠美さんの手か
ら逃れるのは不可能だったからあきらめて座った。
挨拶を交わした後で遙さんが意外なことを言った。
「釣りバカ日誌という映画のチケットがあるんですが見に行きませんか?」
僕の答えはまた例のごとく、はいという一言だった。
「もう見てしまったということはないですか?」
「いえ、ないです」
「この映画シリーズものなんだけど、見たことあります?」
「テレビで1、2度見たような」
口に出したとたん、これじゃあ関心がないと言っているようなものじゃないかと思って、
遙さんの機嫌を損ねたのではないかと不安になった。
「木曜日の午後7時の回なんですけど、ご都合はどうですか」
遙さんの声には変化がなかった。僕はほっとして、「大丈夫です」と答えた。
遙さんは劇場の場所と待ち合わせの場所、時間を指定した後で僕をまた驚かせること言
いだした。
「偲さん、原作のコミックを見たことありますか?」
僕は見たことがなかったので、いえと答えた。
「それじゃ、宅急便で送りますから、良ければ見てください。映画は映画でコミックを見
ていなければいけないというんじゃないけど、面白いと思いますから」
電話を切るとさっそく瑠美さんが僕に話せと迫ってきた。僕は正直にすべてのことを話
した。
「あたしが何とかするなんて言ったけど、先手をとられちゃったわね」
瑠美さんはちょっとがっかりしたような顔で言った。
「瑠美ちゃんごめんなさいね。偲の方からもお誘いしなければいけないでしょうから、ど
こか考えておいて」
「はい、探しておきます。でも亜紀さん、この遙さんという人ずいぶん変わった人ねえ」
「そうねえ、最初は男の方から誘うのが普通ですものね」
「それに映画っていうのも、普通は話をするためで映画なんか見ないんじゃない」
「その映画が釣りバカ日誌というのも女の人にしては珍しいんじゃない?」
僕は二人が遙さんの悪口を言ってるように聞こえて腹が立って言った。
「釣りは遙さんの趣味なの」
「あらら、偲ったら遙さんの悪口を言われたと思って怒ってる。でも悪口を言ってるんじ
ゃないの。遙さんという人は亜紀さんの印象からしても非常識な人とは思えないのに、こ
んな変わった出方をしてきた、それが不思議だといってるの。そうよね亜紀さん」
「そう、瑠美ちゃんの言うとおり。遙さんて常識にとらわれないというのかしら」
「亜紀さん、偲の方から誘うっていうの、ちょっと待ったほうがいいかもしれないわ。次
も遙さんの方からなにか言ってくると思うの」
「そうね、偲がじたばたしてもかなう相手じゃなさそうだから、遙さんにお任せしたほう
が無難ね。もしあまり長い間なにも言ってこないようだったら、こちらからお誘いすると
いう事にしましょう」
それから10分ほどして瑠美さんが、
「それじゃ勝弘がいじけてるでしょうから帰るわ」と言った。
「一緒に連れてくればいいじゃない」と母が言ったが、
「それがだめなの。あいつ、あたしと偲が仲良しだからやきもち焼いて偲につっかかりた
くなっちゃうんですって。だから来たくないんですって」
「わたしが会っているとそうとも思えないだけど」
「偲に対してだけなの。亜紀さんのことはほめるのよ。素敵だ、素敵だって、だからたま
に、ほかの女の人をほめるなって言って、頭をひっぱたいてやるの」
「瑠美ちゃんにやきもちを焼かせようとして言ってるだけよ」
「そんなことないわよ。あたしから見ても素敵だもの。洋平さんもそう思うわよね」
突然問いかけられた父は、びっくりしてちょっと間を空けて「そうですね」と一言いっ
ただけだった。
僕には父が戸惑う気持ちがよく判った。自分の妻を他人に対しててばなしでほめるわけ
にはいかず、かといって謙遜してそんなことはないなどと言えば、後で母にとっちめられ
る、当たり障りのないことを言うしかないのだった。瑠美さんも父が答えに窮するのは判
って言っているのだ、小学生のころから父がどう答えようか迷って目を白黒させるのを楽
しんでいたのだ。
「勝弘がよく言うの、亜紀さん、あたしの同級生のお母さんには見えないって。あたしも
そう思うし、ご近所の人もみなそういってるわ。ねえ、偲もそう思うわよね?」
だからそういう答えにくいことを聞かないでよ、と思いながら「うん」と答えた。
確かに48歳の母は、息子の僕から見てもきれいだし、歳よりずっと若かった。だから
僕は母と外出するときにいつも、母と連れ立つという照れくささと、こんなきれいで若く
見える母に誇らしさを感じていた。
「あらそんなにほめられて、このままでは帰せないわね」
「お世辞じゃないのよ。でも今日はこれで失礼します」
瑠美さんはそのまま帰った。
翌日家に帰ると、遙さんからの宅急便が届いていて、なかをあけると、釣りバカ日誌の
単行本が1巻から10巻まで入っていた。遙さんは読まないでもいいとはいったが、遙さ
んが好きだといったものを読まずに済ますことはできないと思って読み始めた。9時ごろ
に遙さんに電話をかけたが、留守電になっていた。本を読むことに集中しようとしたのだ
が、まだ帰宅していない遙さんが気になって、身が入らなかった。
11時ごろになって、遙さんから電話がかかってきた。お酒を飲んできたのか、遙さん
の陽気で、ずっとくだけたしゃべり方になっていた。最後に遙さんは再び「無理して全部
読もうとしないでいいのよ」と言った。でも僕はやはり読もうと思って本に戻ったが、遙
さんがあんな陽気になるお酒を飲む相手は誰なのだろう、僕ではお酒の相手はできないし、
遙さんを上機嫌にするような話題も持ってないし、僕は遙さんの相手にふさわしくないと
いう思いが強くなってきた。結局本へ集中することはできず、眠さに負けた時は第3巻の
途中だった。
翌朝、本を会社へ持って読むかどうかで悩んだが、読んでいるところを尚子さんに見つ
かればなんだかんだとうるさいだろうし、今日中に全部読むと言うことはあきらめて、置
いて行くことにした。
帰りの電車に乗ってつぎの駅で、僕の隣に背の高い女の人が立った。ちらっと見てみる
と、僕の届かないつり革の取っ手より頭が上に出ていた。ハイヒールを履いていないとす
るとずいぶん背が高いなあ、と思いながら足元に目を落とした瞬間、今まで忘れていた僕
自身の靴の問題に気がついた。それはシークレット・シューズのことだった。
もし会社へ履いていったら、尚子さんに見つかるのは確実だった。朝は一本早いバスに
乗れば、会わないですむかもしれないが、帰りのバスの時間をずらそうとすれば待ち合わ
せ時間に遅れてしまう、会社を休もうか、こんなことで休むわけにはいかない、などとと
りとめもないことが浮かんできて、いい知恵も浮かばず降りる駅についた。
こんなことで、母か瑠美さんに知恵を借りるしかないのかと憂鬱な思いで改札を出たと
きコイン・ロッカーが目に入った。僕はこれだっと思った。
家に帰って夕食を待つ間に、翌朝バスに乗り換える山手線の駅のいつもとは反対の改札
口のロッカーに靴を預けておこうと決めた。ここでまたひとつの問題に気がついた。それ
は靴を履き換えたりしていたら、待ち合わせの時間に間に合わないという事だった。
あまり早い時間では遙さんは帰っていないかと思って、10時ごろになるのを待って電
話をかけた。僕が待ち合わせ時間を10分を遅らせ欲しいというと了解してくれた。昨夜
と違って遙さんのしゃべり方は普通でお酒が入っているようには聞こえなかった。
就業間近になって、突発的な仕事が入ってきて、僕はその検査にかかった。
「偲君、さっきから時計ばかり気にしているけどなにか約束でもあるの」
今日は尚子さんではなく山際室長が声をかけてきた。
確かに山際室長が言うように僕には遙さんと映画を見ることになっていた。でもこの仕
事を終わらせれば、遅れることは確実で、今すぐ出ても時間に間に合うバスに乗れるかど
うかのぎりぎりだった。僕は正直に打ち明けるかどうかで迷ったが、遙さんとの約束を大
事にしたいという気持ちの方が強く、見合いをしたこと、今日が初めてのデートであるこ
とを話した。
「大岩さん、偲君の検査をやってあげて。偲君、すぐかえりなさい」
いつもだったら何かをいう尚子さんが、山際室長の改まったいい方に反応して「判りま
した。偲君、あとは任せて」と言っただけだった。
僕は山際室長の親切がうれしくて涙が出そうになって、挨拶もそこそこに検査室を出た。
山際室長の配慮で仕事を尚子さんに引き受けてもらって、急いで着替えて工場をでたが、
乗るつもりだったバスの時間はとうに過ぎていて、次のバスがすぐに来たので乗った。
乗り換えの駅が近づくにしたがって、コイン・ロッカーに預けたシークレット・シュー
ズを取り出して履き換えたのでは、待ち合わせ時間には間に合わないという事がはっきり
してきた。僕は、時間に遅れても靴を履きかえるか、履きかえずに行って身長と体重につ
いて嘘をついていたことを謝るか、どちらかを選ばなければならなくなった。
悩んだ末に、僕は、シークレット・シューズに履きかえるといった小細工をするために
待ち合わせ時間を遅らせてもらった上に遅刻をしていくというのはいかにも失礼だし、嘘
をついているという引け目を感じながら交際を続けるのは苦痛だしということで、正直に
打ち明けようと決心した。
山手線に乗り換えると僕の心は、嘘を告白するのだという誇らしげな気持ちと、告白し
たら嫌われてしまうだろうという気持ちが混ざり合って、なんとも複雑なものだった。 電
車を降りて待ち合わせのスターバックスにつくと、窓越しに僕を見つけた遙さんが笑顔を
浮かべて手を軽く上げてくれた。僕も笑顔を返そうとしたが、僕の笑いは泣き笑いになっ
てるのだろうなと思った。
僕は中にはいるとまず3分くらいではあるが時間に遅れたことを謝って、僕の身長が本
当は157cmであるにもかかわらず、161cmだと嘘を書いたこと、48kgと書いた体
重も実際は42kgであることを告げて、何度も何度も頭を下げた。
「もういいわよ。それより飲み物を買ってらっしゃい。映画のあとで軽いものを食べるけ
ど、お腹がすいてるようならパンでも食べたら」
遙さんが微笑を浮かべながらいってくれた。どうやら怒って帰ってしまうということも
なさそうだったので、僕はほっとした。遙さんの前のテーブルには飲みかけのコーヒーと
パンがあった。
僕が飲み物を買いにカウンターの方に向かっていると、まわりのお客さんがみな僕の方
を向いて笑っていた。僕はそのとき店の中の人全員に聴かれてしまったという事に気がつ
いた。
僕は真っ赤になって、コーヒーだけを注文した。女店員さんも笑いをこらえながら、注
文を聞き、僕がコーヒーを受け取って戻ろうとしたとき、小さな声でがんばってねといっ
た。
僕が席に戻ると、遙さんはさっきのことには触れず、映画のことなどを話題にした。6
時40分ごろになると遙さんが行きましょうといって立ち上がった。僕もあとについて外
にでた。
横に並んだ遙さんはずいぶん背が高く感じた。どうもハイヒールを履いた母より少し高
いのではと思って、彼女の足元を見たが、コーデュロイのパンツのすそに隠れて靴はよく
見えなかった。
「気がついた?」
「なんのことでしょう」
「偲さん、あたしの背が気になったでしょう」
確かにそうだった。160cmのはずの遙さんが、スニーカーを履いた167cmの尚子
さんと同じくらいに感じられたのだった。僕はどういうふうに答えようかと戸惑っていた。
「あたしも嘘を書いていたのよ。本当は165cmで56kg。ごめんなさい」
「いいえ、どういたしまして」
「両方で嘘をついていた。これでおあいこね」
「はい」
遙さんはおあいこと言うけど、僕は大勢の人のまえで告白して笑われて、何十回も頭を
下げたというのに、彼女は誰にも聞かれずに言って、ごめんなさいの一言、僕の方がずい
ぶん損をしていると思ったが、不思議と腹が立たなかった。僕にとっては彼女に嫌われな
かったらしいということで満足だった。
映画は前にテレビで見たときは、釣りに興味はないということもあって、あまり印象に
残っていないが、やはり好きな人に誘われてみたと言うことが影響しているのかとても面
白かった。
ラストの、誤解から仲たがいをしていた伝助と鈴さんが仲直りをしたシーンで涙が出て
きて止まらなくなってしまった。僕は席を立つことができなくて、しばらく泣いていたが
最終回のだったので掃除をする人が入ってきてしまった。僕は遙さんに促されて席を立つ
と、彼女が僕の肩に手をまわし歩き出した。劇場を出てもまだ僕は泣いていたが、遙さん
が僕の肩を軽くたたいてくれて、僕は子供のころに母に抱かれて泣きやんだように、心が
穏やかになって涙が止まった。
映画館からそれほど離れていない中華レストランに入ると、遙さんが顔を洗ってらっし
ゃいといって、タオル地のハンカチーフを渡してくれて、洗面所の方を示してくれた。
顔を洗いながら、僕はなんてみっともないとこばかり見られるんだろう、もっとしっか
りしなくてはと思っていた。
テーブルに着くと遙さんがなにか嫌いなものはあるかと聞くので、食べ物の好き嫌いは
ないと答えると、料理を注文した。またお酒は飲むかと聞かれて、ぜんぜん飲めないとい
うと、遙さんは紹興酒を頼んでいた。
前菜のクラゲ、蒸し鶏、空芯菜の油いためにお粥という料理を食べ終えて、支払いのと
き遙さんはかわりばんこにしましょ、今日はあたしの番と言って、僕に出させなかった。
外にでると、僕も少しはかっこいいとこ見せなくてはと思って、「お送りします」といっ
た。
「駅から近いから、かまわないのよ」
「いいえ、お送りします」
「それじゃお願い」
送りますなんていったくせに僕は地下鉄の駅の方向が判らなくてきょろきょろしている
と、こっちよと言って遙さんが歩き出した。
「今度の土日は、ダイビングをする約束がしてあるの。偲さん良ければ一緒しない?」「ぼ、
僕はぜんぜん泳げませんから」
「そう、残念ね。海の中ってきれいなのよ」
「はい、知ってます。テレビなんかでは見ますから」
「それでは来週の水曜日に根津神社の写真を撮りに行こうと思ってるんだけど、どうかし
ら。お休みとれる?」
「はい。とります」
「じゃあ詳しいことは後日ね」
「はい。でもねず神社ってどこにあるんですか?」
「地下鉄千代田線に根津っていう駅があるでしょう。こっちの方から行くと湯島のつぎよ」
「はい、知ってます。」
「その近くにある神社で、つつじで有名なのよ。今つつじ祭りの期間中で土日はすごく混
雑するから、写真なんか撮れないの」
僕は次に会う約束まで、遙さんがしてくれたので天にも昇る気持ちになった。僕は遙さ
んについて銀座線に乗り、溜池山王で大江戸線に乗り換え、麻布十番で降りいつの間にか
遙さんの家についていた。
別れの挨拶を交わし、僕はきた道をひき返したが最初の辻でどっちからきたのか判らな
くなってしまった。四方をきょろきょろと見回し、こっちのほうだろうと見当をつけて左
の方へ曲がって、しばらく行くと「偲さーん」と呼ぶ遙さんの声が聞こえた。
僕が立ち止まって振り返ると、遙さんが辻のところに立っていた。
「そっちじゃないわよ」
僕は走って遙さんのところへ戻った。
「こっちよ」
遙さんが歩き出した方向は僕の曲がったのと反対だった。
地下鉄の駅に着くと遙さんは「ややこしいところでごめんなさい。それじゃ気をつけて」
と僕を送ってくれた。
ややこしいところと言ったのは、遙さんの気遣いで実際にはあと一度曲がっただけだっ
た。送りますなどと大見得をきったくせに、降りた駅の方向が判らなくなって、逆に遙さ
んに送ってもらうなどというどじをやらかした僕が情けなくて、遙さんにあきれられてい
るだろうなと、落ち込みながら地下鉄に乗った。
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