「元気ないじゃない。失恋でもした?」
僕の隣のデスクに座っている、大岩尚子が話しかけてきた。
なにも知らないはずの彼女の言葉がぴたりと当たっていたので、びっくりした僕は飲み
込んだつばが気管のほうに入って、激しく咳きこんでしまった。げほげほやっている僕の
背中を尚子さんがさすりながら言った。
「うそ、冗談のつもりだったのに。マジ?」
僕はまだ声が出ないので、激しく首を振った。
「いまさら違うといったって、だめよ。そんなにあわてるのは、本当のことだからでしょ。
白状しなさい」
僕をからかういい種を見つけたと思ったのだろう、尚子さんはニヤニヤ笑いながら言っ
た。
「違うよ。つばが気管に入っただけだよ」
やっと口をきけるようになったので僕は答えた。
「素直じゃないなあ。白状しろ」
「白状することなんて、なにもないよ」
普通だったら11歳も年下の後輩に対して”余計なこと言ってないでさっさと仕事をし
なさい”と言えるのだろうが僕には彼女に対して強く出られない事情があった。
僕の職場は印刷インキを作る工場の検査室で、メンバーは全部で4人、僕を除く3人は
女性だった。メンバー構成は、室長の山際静香さんは28歳で勤務年数11年、河島潤子
さんは23歳で6年、僕は30歳で12年、大岩尚子19歳1年だった。僕は年齢と勤務
年数は最上位だが、身分上では3番目だった。これは僕が社内の資格審査に合格したのが
最初の段階のみのためでで、2段目の審査は3度不合格となって以降、審査は受けていな
かった。検査室は工場長直属の部署で、室長の上には工場長しかいなかった。
山際室長はきわめて優秀な人だった。彼女は普通科の高校出身で最初は庶務課勤務だっ
た。しかし夜間大学で化学を学び、製品や原料についての知識も得たうえで製造部への配
転を希望し、かなえられた。製造部で受注、原材料仕入れ、製造、出荷とすべての業務を
経験して、検査室に配転になったのは3年前だった。検査室で1年経過したころ、検査結
果を管理するコンピュータシステムの改善を提案したのだが、それまでのシステムを作っ
た(とはいっても実際は業者に発注したのだが)前室長に却下された。そこで彼女は自分
でシステムを作り上げ、直接工場長に提案して受け入れられた。そして前室長が配転にな
った去年室長になった。
河島潤子さんは、工業高校の化学化出身、つまり僕の後輩だったが僕より1級上の資格
審査に合格していた。役職上での差はないが、社員名簿にも記載されていることでもある
し、彼女自身の意識も、周りの目も、もちろん僕自身の意識も、彼女が上司という感じに
なっていた。
大岩尚子も普通科高校の出身だが、面接時に製造現場を希望したが検査室勤務になった。
身長は167cm、体重67kgというがっちりとした体型の女性だった。彼女は大岩という
姓が、あまりにも自分の体型を表しすぎているので好きではないから、尚子と呼んで欲し
いと言っていた。
河島さんと尚子は仲がよく勤務中もよくおしゃべりをしていた。河島さんは身長は尚子
と同じくらいだが、体重は55kgと尚子より12kg軽く、性格も穏やかなので尚子のほう
がリードしているという感じだった。
僕が尚子にたいして引け目を感じるきっかけとなったのは二人のおしゃべりだった。半
年ほど前のことだが、山際室長が来客で席をはずしているときだった。
尚子が自分の性体験を話し始めた。広くはない部屋で声を潜めるでもなく、男である僕
の存在など気にもとめないという感じだった。僕はいやでも入ってくる尚子の言葉に顔を
赤くしてしまった。これを尚子が見とがめた。
「やだ、なに赤くなってるのよ」
「いや、べつに……」
「ちょっと刺激が強すぎた?」
そんなことをきかれても答えようもなかったので黙っていたが、僕の顔はますます熱く
なった。
尚子はいすの車輪を転がして僕のそばによってきた。
「ねえ! 偲さん、経験ないの?」
僕は猫に捕まってなぶられるネズミみたいな気持ちだった。わざと顔を近づけ僕の目を
じっと覗き込む尚子の顔など直視できずうつむいてしまった。
「そうか、童貞君かあ」
彼女は体を起こして背もたれに背をあずけて、嘆息するように言った。
僕のほうが10年も先輩で身分も上なのだから、仕事に戻りなさいと命じればすむこと
なのに、一度腹を見せて降伏した犬が二度と上位になれないのと同じで、反撃は不可能だ
った。僕は河島さんが助け舟を出してくれないかと、上目遣いに目をやったが、知らんぷ
りだった。
再び尚子は身を乗りだして言った。
「経験豊富な尚子さんがお教えしましょうか?」
僕はその年で自慢することかと思ったが、小さい声で「いえ」とだけ言った。
「あたしじゃ、ご不満?」
「いえ、いや、べつに、そうじゃなくて」
僕はしどろもどろで自分でもなにを言ってるのかわからなかった。
そこへ山際室長が戻ってきた。僕はこれでやっと助かるかなと思った。
「山際さん、偲さん童貞なんですって、知ってました?」
「大岩さん、仕事に戻りなさい」
いつもは尚子さんと呼ぶ山際室長がいった言葉で、尚子の顔に緊張感が戻り、はいと言
って自分の席に戻った。
僕や河島さんに対しては年上とも思わないような尚子も山際室長は苦手らしかった。
翌日、出勤途中に会った尚子が、山際室長に叱られたと言ったが、僕への侘びの言葉はな
かった。
後になって河島さんからきいたのだが、その日の勤務時間後に、二人が山際室長に事情
を聞かれて「そういうことはセクシャル・ハラスメントです」といわれ、尚子が「セクシ
ャル・ハラスメントというのは男が女に対してやることなんじゃないですか?」という反
論に「男からする行為も、女からする行為も両方同じです」と言われ、尚子は謝り、河島
さんも止めなかったのが悪いと言われてやはり謝ったということだった。河島さんは僕に
「ごめんね」と言ったが顔が笑っていて本気で謝っているようには見えなかった。
山際室長の叱責が効いたのか、尚子のしつこいからかいはなくなったが、一言二言とか
室長のいないときの河島さんとの間で交わされる露骨な話題には僕が赤面させられること
はたびたびだった。ただ僕が赤面するのは彼女が話している内容を理解しているからでは
なかった。ただ、話題がセックスに関することだとわかっただけで、恥ずかしくなって顔
が赤らむのだった。
僕の性知識は小中学校の性教育どまりであった。普通それ以上の知識は友達との会話や、
エロ本やビデオの貸し借りなどで覚えていくのであろうが、僕には男の友達がまったくい
なかったのでそういうものに接する機会がなかった。
人間も動物という観点から見れば、性体験の有無が大人と子供とを分けるといってもよ
いわけで、尚子は当然大人で、僕は子供となるわけだった。それに加えて体の大きさも違
っていて、僕には尚子を目下と見ることが難しくなっていった。そして今年の3月二人の
位置関係を決定的にすることが起きた。
ソフトウェアの部分だけを改善した検査室のコンピュータが最新のものに交換されるこ
とになり、新しい装置での運用に支障がないという事が確かになって、古い装置を運び出
すときにその事件がおきた。
ファイル・ラックにはさまれた台の上においてあったCRTディスプレイを台車に乗せ
る役目が僕に回ってきた。力仕事は男の役目だなどといって、尚子が僕に押しつけたのだ。
普段僕を男だなんて思っていないくせにと、口の中でつぶやきながらディスプレイを見て、
どうやって持ち上げようかと考えた。台の奥行きがわりと深いのでまず手前に引っ張り出
そうと考えて、ディスプレイの両側を手ではさみ、引っ張ったが動かなかった。台の天板
は滑りにくい素材でできていて、滑らすことができなかった。持ち上げるしかないと決心
して力をこめた。そばで尚子が「男の子だ、がんばれ」などと茶々を入れたが結局持ち上
げることができなかった。僕が台の上に登って動かすと言ったら、落ちて怪我でもしたら
大変だから、あたしがやると言って、僕と場所を交換した。彼女がよっと言うとディスプ
レイは持ち上がり、台の手前まで移動すると横向きにした。僕は当然彼女のほうが強いだ
ろうとは思っていた。体全体から見ても、僕の2倍はあるのではと感じる腕の太さから見
ても僕に勝ち目はないとは思っていたが、それでも屈辱は感じた。
「あとは僕がやります」と言うと「あたしがやるから、ケーブルをはずして」と尚子が答
えた。
僕がケーブル類をはずすと尚子が軽々とディスプレイを台車に載せた。
「本体は私が出すわ。尚子ちゃんじゃ、かがむのが大変でしょ」
ここで今まで黙ってみていた河島さんが言った。
「あたしがデブだと言いたいわけ?」
尚子が太いヒップに両手をおいて、河島さんに向かって言ったが、目は笑っていた。
「べつに私はデブだなんて言ってません。あなたがやりたいんならどうぞ」
河島さんが尚子を誘うように、右手を台のほうに動かしながら言った。
「いいえ、あたしじゃおっぱいが邪魔になって届かないかも。河島さん、お願いします」
日ごろ胸が小さくてと口にする河島さんへ、Fカップを自称する胸を突き出しながら尚
子が反撃した。僕は河島さんの胸がそれほど小さいとは思えないのだけど、尚子の巨大な
胸に比べればそう言いたくなる河島さんの気持ちもわかった。
「ほら二人とも、漫才やってないで、仕事を済ませなさい」
ここで山際室長が口をはさんだ。
河島さんがちろっと舌を出して、台の前にかがみ、奥のほうからコンピュータをとりだ
した。
廃棄するものをすべて台車に載せると河島さんが言った。
「偲君、外に出しておいて」
僕は台車を廃棄物置き場へ押していった。僕は台車をおいて戻りかけたが、ディスプレ
イは僕がまったく動かせないほど重いのだろうかと気になって、試してみることにした。
台車の後部に載せてあった17インチのディスプレイに手をかけて、力を入れるとどうに
か少し浮いた。しかし一瞬のことで僕には持ち上げ続けることはできなかった。僕が台に
上がって動かす、と言ったとき、尚子が落ちたら大変だからあたしがやると言ったのは正
しかったのだ。
コンピュータ本体のほうはどうなんだろうと思って持ち上げてみると、ディスプレイよ
りはだいぶ軽かったが、河島さんが引き出したときの体勢、つまりしゃがんで腕を突き出
すと言う体勢では持ち上がらなかった。
僕が二人とも強いなあ、だけど尚子と河島さんではどっちが強いのだろう? やはり尚
子かなあ、などと考えながら検査室に戻ってくると尚子が山際室長になにか訴えている様
子だった。
「あたしたちだけに力仕事を押し付けて、山際さんずるいです」
「あらら、大変な言いようね。でも若くて元気な人がやったほうがいいんじゃない」
「山際さん、年寄りじゃないじゃないですか」
「それにあれくらいのこと、尚子ちゃんには力仕事のうちに入らないんじゃないの?」
普段は尚子のおしゃべりの度が過ぎると、仕事に戻りなさいと命ずる山際室長が時々笑
みを浮かべながら真剣な顔をした尚子の相手になっていた。
「それはどうでもいいんです! それよりあたしの挑戦を受けてください」
僕は尚子がなにをしようとしているのだろうと考えていた。
「自分の方が強いんだと思っていればいいんじゃない」
「そうはいきません。山際さんの態度は負けるのがいやで逃げているようには見えないし、
どう考えてもあたしが負けるとは思えないし、どっちかはっきりさせたいんです」「世の中、
あいまいにしておいたほうが良いこともあるわよ」
「あたしはこんな中途半端な状態はいやです。お願いです。決着つけさせてください」
余裕綽々な山際室長に対して、あくまで尚子は本気だった。
「駄々をこねてる子供みたいね」
「子供でもいいです。お願いします」
「しょうがないわね。負けたわ。やりましょ」
「はい! それじゃあそこで」
尚子は嬉々としてそばの作業台の上のものを片隅に寄せて、右ひじをついた。僕はやっ
と尚子のやりたかったことが腕相撲だったのだとわかった。
山際室長がゆったりと近づいてきて証拠の向かいに立って、ひじをついた。
「偲君、審判やって」
今までさん付けで呼んでいた尚子が、命令口調で言った。
僕は君付けで呼ばれたことには異は唱えず「どうやればいいのか判らないんだけど」と
いった。
「私がやるわ」と言いながら河島さんが近づいてきた。
二人の組み合った手の上に河島さんが手のひらをかぶせ、「レディ、……ゴー」と言って
手を離した。
勝負は一瞬だった。尚子の手の甲が台についた。二人が組み合った手を解いたとき終業
のチャイムがなった。
「さあ、帰りましょう」
何事もなかったかのように言うと、山際室長はロッカー・ルームへ向かった。まだ呆然
としたまま動かない尚子の腕をつかんだ河島さんが、さあ帰るわよと言いながらロッカー
の方に引っ張っていった。
山手線の駅までのバスのなかでも尚子は黙ったままで時おり「信じられない」を繰り返
すだけだった。
確かに尚子の言ったとおりで、社内の女の子が山際さんてモデルさんみたいとか、高校
時代モデルをやってたんだってなどと噂されている、背の高さは5、6センチ上回ってい
るとはいえスリムな山際室長があのがっちりとした体格の尚子をいとも簡単にねじ伏せて
しまうなんて、僕にも到底信じられなかった。
駅について、僕がさよならと言っても黙って反対方向の電車のホームへ行ってしまった
尚子だったが、翌朝会うと元気になっていて、僕の顔を見るなりこういった。
「室長には負けたけど、偲君よりは強いのよ」
「わかってるよ」と僕が言うとさらに「河島さんもよ」とたたみかけてきた。
僕は思わず「わかっています」と言ってしまった。するとすかさず尚子が、
「お茶を入れて」と言った。
僕ははいと言って、給湯室にお茶を入れにいった。今まで朝とお昼のお茶を入れるのは
それまでの習慣で一番下の人がやるという事で尚子さんが入れていた。もちろん彼女が休
んだときは僕の役目になったが、彼女が出勤してくるとまた彼女に戻っていた。
山際室長から河島さん、尚子さんの順にお茶を配って、最後に自分の分を持って席に着
きお茶をすするとおいしかった。これは尚子さんのお茶の入れ方が悪いというのではなく、
仕事の上では僕に聞く必要がないほどになり、体でも性体験でもはるかに上回り、僕が上
回るのは年だけという尚子さんにお茶を入れてもらっているということが苦痛で、ゆった
りと味わうということができなくなっていたのだった。それがこうして、僕が入れるとい
うことで変な落ち着きのなさというものが消えて、お茶本来の味を楽しむ事ができるよう
になったのだ。
この日以降、お茶を入れるのは僕の役目となり、と同時に僕の検査室での地位が最下位
になったことを意味したが、僕はこの役目を手放す気にはなれなかった。
これ以上追求されたら話さざるを得ないかもしれないと思いかけたとき、「いいわ、相談
したいことがあったら誰かにいいなさい。みんな相談にのるよ」尚子さんがいって仕事に
戻った。
最近の尚子さんは、少し大人になったのか、それとも完全に僕の上に立ったという自信
からか、とことん僕を攻め立てるというのではなく、ずっと年上の姉が弟をからかうとい
う感じになってきた。
尚子さんにあっさりと引かれると、僕の見合いでの失敗と、この情けない思いを彼女に
打ち明けたいという気持ちも少し起きてきたのだった。
もやもやとした気分のまま午前中の仕事を終え、昼休みになって食欲がないなあと思い
ながらトイレから部屋に戻ってくると、尚子さんが「電話よ、山野さんという女の人」と
いった。
僕はあわてて、保留になっていた受話器を取り上げた。
「もしもし、偲です」
声が裏返りそうだった。
「遙です、昨日は失礼しました」
落ち着いたアルトの声が返ってきた。
「あ、いいえ。どういたしまして」
どうやら遙さんが僕のことを声を聞くのもいやというほど嫌っているのではないという
ことが感じられて、少し落ち着いてきた。
「夕べは少し帰りが遅くなりましたのでお電話も差し上げずごめんなさい。今朝方、大原
先生にはご連絡しました。事情を話したら、叱られちゃった。あたりまえよね。偲さんに
嫌われちゃったかしら?」
遙さんの口調がくだけたものになってきた。
「いいえ。そんなことはありません」
僕ももっとなにか言いたいのだが、出るのはこんなぶっきらぼうな言葉だけだった。
「お付き合いしていただけます?」
「はい」
「会社へかけてごめんなさい。それでは失礼します」
「どういたしまして、失礼します」
どうも遙さんは僕が社内の電話のせいでしゃべりにくいのだと思ったようだが、実のと
ころは僕にはどこで話しているなどということは意識になかったのだ。ただ思いもかけな
いことがおきて、うれしくて言葉が出なかったのだった。
「どうしちゃったのよ。さっきまで古漬けのキュウリみたいな顔してたのに、急に元気に
なっちゃって」
尚子さんが不思議そうな顔をして言った。
「いえ、べつに。あ! お茶を入れなくちゃ」
僕はお茶を入れると遅くなったことを謝って、自分の席で弁当をひろげた。さっきまで
は食欲がなかったのに、急に空腹を感じた。
「ねえ、山際さん。偲君どうなってるんだと思います?」
まだ尚子は気にしていた。
「判らないわよ。人のことなんか」
「知りたいと思いませんか?」
「思いません」
「そうかなあ……あたしは知りたいなあ。見てくださいよ偲君の顔。でれでれしちゃって、
さっきまで泣きそうな顔だったのに」
「でれでれなんかしてないよ」
「でれでれしてるよ。鏡で見てみなさい。ねえ、ねえ、河島さん、どう思う? 知りたい
と思わない?」
「私はべつに」
「あーん、みんな冷たいんだから、もういい」
とうとう尚子さんはふてくされてしまった。これまでさんざん僕をからかったり、なぶ
ったりしてきた彼女が僕のことでカリカリし、いらいらしているのを見て快感を感じるか
というと、逆で僕が尚子さんをいじめているみたいで落ち着かず、話してしまったほうが
楽かなあとも思ったが、今回のことを話せば、今後のことも話さないわけにいかなくなる
だろうし、遙さんと僕のことは彼女には関係ないのだから、話さないことにしようと決め
た。
午前中の沈んだ気分とは、大きな違いでうきうきと仕事をしていたが、1時間ほどする
と、遙さんをどこへ誘ったらいいのか、ということが気になりだした。
三十を過ぎているというのに僕は情けないことに女性とデートをしたことがなかった。
若い女性の好みそうなレストランがいいのか、でも僕はそんなところの知識なんてないし、
情報誌で調べて行ってもいいが、どんなものを食べればいいのか、どうやって食べるのか
も僕にはわからないし、遙さんは職場にも同世代の仲間がたくさんいることだし、知識は
豊富だろうし、そんな彼女に対して僕が知ったかぶりして案内したって恥をかくのは目に
見えている、結論としてはこれはだめだった。
では彼女の好きなことに誘うとはいっても、僕はまったく泳げないのだからダイビング
は論外、釣りはというと僕の釣り経験は社内旅行で行った温泉地でのニジマス釣りしかな
かったのでこれもだめだった。
せっかく遙さんの、お付き合いをさせてください、の一言で浮き上がった僕の心は沈み
始めていた。僕には女性を誘って行く場所をひとつとして持っていないことが情けなくて
泣きたい気分になってきた。
そのときやっと僕の唯一の趣味である音楽を思い出した。『コンサートに誘えば良い』こ
れは名案だと喜んだ瞬間、コンサートへ行っただけでは、話をすることもできない、やは
りコンサートの前か後には食事でもしなければいけないと気づいた。その食事をする場所
を知らなかった、それが悩みのスタートで、今またそこへ戻ってしまった。
母に相談するしかないか、三十歳の男がデートの場所を母に相談するというのはいくら
なんでも恥ずかしい、しかたがないから瑠美さんに聞くか、でも大笑いされたあげくから
かいの種にされてしまうだろうし、などと思い悩みながら仕事を続け、尚子さんに「どう
したの、さっきはでれでれ、ニヤニヤしてたのに、また古漬けのキュウリにもどっちゃっ
たじゃない」といわれ、「いや、べつに」などとごまかしながら就業時間まですごした。
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