新・第三次性徴世界シリーズ・2
ラブホテル13号室の巻・1
笛地静恵
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プロローグ
 少女の胃袋に、生きたままで飲み込まれたようだった。酸素が不足していた。身体の上
に、少女の二百センチメートルはあるヒップが乗っていた。磐石の重みだった。臀部の筋
肉は、鋼鉄のようだった。恥骨の形が、鼻梁の骨に感じられた。臀部の強靭な筋肉の造る
尻の谷間が、胃壁のように、左右からぼくの顔を押し包んでいた。汗が胃液のように滲ん
で来ていた。鼻も口も押し潰されていた。ぴくりとも動かせなかった。口の上に性器の末
端があった。まり亞は、ぼくの足の方に、顔を向けているはずだ。肛門が眉間の上にあっ
た。もう、いい。やめてくれ。ほんの遊びなんだ。もう十分だ。そう頼もうとした。しか
し、口が開かなかった。呼吸が苦しくなっていた。窒息感が強まっていく。心の中で、助
けてくれと絶叫していた。もしかすると、まり亞は、ぼくのことを、このまま始末してし
まうつもりなのだろうか。ぼくの貴重な蔵書を、そっくりそのまま、自分のものにしてし
まうつもりなのだろうか。初対面のぼくに対して、あまりにも優しすぎた。少女が加害者
である猟奇的な殺人事件が、いくつも思い出された。第三次性徴期にある女の子は、ホル
モンの不安定のために、性格・u「癲w)危険な暴走をする
ことがある。新聞の社説にもあった。このまま、お陀仏なのかと思った。上にも左右にも、
まり亞という少女の、湯上がりのシャンプーと汗の香のする、肉の壁があった。上は尻で、
左右は太腿だった。彼女は、ぼくの希望のままに、顔の上に座ったのだ。いつまでも腰を
上げようとしない。身長が三メートル以上ある十四歳の美少女の体重は、おそらく四百キ
ログラムは下らないだろう。男性用の、軽自動車一台分が、乗っかっていうようなものだ。
頭蓋骨が歪んでいるようだった。あちこちが、軋みながら悲鳴を上げていた。美少女の尻
の下が、男子の一生の最期の地として、ふさわしい場所なのかどうか、分からなかった。
薄れゆく意識の中で、どうしてこんなことになってしまったのか、考えていた。
1・ノイエ・シブヤ
 ノイエ・シブヤは、電飾のクリスマス・ケーキだった。薄っぺらな虚飾の街だ。美美し
く飾り立てられていた。第三次性徴によって、平均でも男性の二倍以上の体格に巨人化し
た少女のために、人工的に造成された街だった。二十一世紀のガイア隕石の、地球衝突に
よって壊滅するまで、日本の首都だった東京に、実在した街だった。忠実に復元したのだ
った。
 駅前に、ハチコーという名前の犬の銅像がある。待ち合わせ場所になっていた。「旧世界」
の写真を見たことがある。たしかに駅前の通りなど、本物にそっくりである。明らかに異
なっている点が一つあった。たとえば、写真に撮って比較したとすれば、通行人の様子で
ある。
 二十一世紀のそれでは、男女がほぼ同じ大きさである。しかし、二十二世紀の今では、
男性は女性の半分しかない。大人と子どものようだった。しかし、本当は、男性が小人に
なったのではない。女性が巨大化したのだった。
 彼女たちのために、どこもかしこも、本物の二、三倍の縮尺になるように、作られた街
だった。巨人の街である。デパートは摩天楼だった。109の塔は、バビロンのように天
を圧していた。「旧世界」の男性には、自分がもし、半分の身長の小人になって、巨大な少
女の闊歩する街を訪れたら。そう考えてもらうと、想像が容易な状況なのかもしれなかっ
た。
 この街が建設された背景には、十代の少女たちによる、男性との体格の差を悪用した、
凶悪で猟奇的な犯罪事件の増加があった。政府も、真剣に彼女たちのストレスの解消に努
める施策を、早急に実行する必要に迫られていた。その一つの現れが、ノイエ・シブヤな
のだった。ノイエとは独逸語で「新」という意味である。新らしい渋谷だった。
 十二月末のノイエ・シブヤは、クリスマスのムード、ひと色に染まっていた。夕方から、
雪になるという天気予報があった。ドーム都市だから天候は調整されている。本当は、予
報ではなくて予告だったが、この呼び方が定着していた。雪のホワイト・クリスマスにな
りそうだった。
 ぼくは、黒い外套の衿を高く立てて、雑踏の中を歩いていた。灰色の背広に、灰色のワ
イシャツと、やや灰色の濃いネクタイという出で立ちだった。灰色の犬ころになったよう
な気分だった。天然で、ウェーブのかかる長髪に風が絡んで来ていた。美形ではないが、
一匹狼のような渋い容貌として、それなりに女子学生にも人気のある方だった。『日本文学
における男色の流れ』という講義は、満席の好評だった。
 歩いているのは、男性専用の歩道である。それなのに、混雑した女性専用の歩道から、
巨人たちの身体が溢れそうになる。特に、彼女たちの五十センチメートルはある靴は、大
きな凶器だった。何度も、踏み潰されそうになっていた。接触しただけでも、大怪我をす
るだろう。道の脇に避けて小さくなっていた。年年歳歳、美しい少女たちが生まれてくる。
その大きな身体が、嬉しくてならないというように、素肌を見せびらかして歩いている。
冬でも、手足を剥出しにしているものが、ほとんどだった。
 今年のファッションの流行は、「胸の谷間」である。第三次性徴によって、例外なく豊満
なバストの持ち主に変身していく彼女たちは、それを強調するように、襟元の深く開いた、
デザインの服を着ていた。
 いかに魅力的に見せるかに、知恵を絞っていた。男性に見せるためだけではない。主な
目的は、同性の同世代の少女たちの間で、いかに目立つかに、興味のと関心の中心があっ
た。女性の意識は「旧世界」とは、明らかに変化していた。問題の一部ではあるけれども、
すべてではなかった。
 十八世紀のヨーロッパの社交界のドレスに近いだろうか。フリルや刺繍で花びらのよう
に、そこを飾り立てているのものいた。
 ぼくは、信号待ちの隙に、道の反対側の歩道を歩いている女性の、ピラミッド型に高く
突き立った、薄いシャツの胸元を観察していた。ここからならば、気が付かれずに安全だ
った。ばれると難癖を付けられて、何をされるか分からなかった。
 少女の欲望の、解消のための場所として作られたノイエ・シブヤは、皮肉なことには、
少女の犯罪の検挙率でも、大日本女王帝国でも最悪の街となってしまっていた。私服の女
性警官が、目立たぬように多数、パトロールをしているのにもかかわらずだった。彼女た
ちの目が届かない細い路地など、いくらでもあったからだ。
 気が付くと、ぼくの目の前の少女の、二百センチメートル以上はありそうな胸の谷間に、
雪片が舞い降りて来ていた。宝石のようにきらめいて、つかのまに消えていった。彼女た
ちの脂肪層の厚さは、雪の冷たさなど何にも感じてはいないようだった。体温も、男性よ
りも数度、高いのだった。
 女性の耐寒性の男性に対する圧倒的な優位は、医学的にも証明されていた。南極の越冬
基地の隊員は、全員が女性だった。零下二十度という寒気の中で、そこが真夏の砂浜のよ
うに、ビキニ姿でビーチバレーに興じる、ニュース映画を見たことがあった。雪が真夏の
海辺の、陽光に照らされた、眩しい白い砂のように見えていた。
 友人のように、脇に連れ立った少女の胸元には、最近、流行している、ホログラムのシ
ールが貼られていた。胸元に挟まれて苦悶しているような、男の映像を三次元で記録した
ものだった。十センチメートル程に縮小された男は、そこから這い上がろうと、永遠に脱
出の見込みのない、無益な苦闘を何度も何度も繰り返していた。蛍光を発していた。悪趣
味でキッチュなおもちゃだった。さまざまなヴァリュエーションがあった。
 まるで、ぼく自身を見ているようだった。ある年上の女性と、そのような泥沼の関係を、
継続していたから……。
 女性は、二十世紀の後半から、晩婚化の傾向を見せていた。現在の日本人の少子化の始
まりである。非婚化は、二十二世紀の日本では、主流となるライフスタイルだった。女性
は、男性に飽きたのである。子どもを作りたければ、生殖センターにいけばよい。体外受
精で、簡単に子どもを作ることができた。体格が違いすぎて、現在では自然な性交で、妊
娠する可能性は数パーセントしかない。自分の方が仕事の収入も多くて、セックスでも満
足させてくれない男と、なぜ結婚などする必要があるだろうか。何を、求めることがある
だろうか。
 現代では、三十歳の女性で正規な結婚生活を送っている夫婦は、総人口の二十パーセン
トに満たない。つまり、ぼくも必然的に、五人の内四人を占める、大多数の独身男性組の
一人だったのである。
 物思いに耽っていた。彼女のホログラムにあまりにも長いこと、視線を向けすぎていた
らしい。「何を見てるんだよオ」そう凄まれてしまった。「ああ、雪ですよ」ぼくは、ひと
ひらの雪片を、掌に掬い取るようにした。彼女たちの方に捧げていた。巨大な女子高生た
ちが、空を見上げていた。信号が変わったのを好機に、足早に立ち去ることにした。
 これといって予定のない、クリスマスのイブの行く先に、ノイエ・シブヤを選んだのは、
古本屋『再会』があるためだった。おやじの丸井さんには、年末まで休みなく開いている
と、言われたような気がしていた。電話で確認も取っていない。休日だと言われるのが恐
かった。ぼくは、何にせよ物事を決定することから逃げているのだった。優柔不断な男だ
った。
 年度末に、昨年翻訳したスコット・グリルドリグのSF小説の印税が入った。大学の助
教授としては、願ってもない大量の臨時収入だった。珍しく懐は豊かだった。何か古書の
出物があれば、全部を注ぎ込んでもよいと思っていた。何でも良い。馬鹿なことをしたか
った。
 ノイエ・シブヤ駅の西口は、少女たちの街だ。東口は、普通の会社街である。もちろん、
クリスマス休暇に入っている。大半の会社が、シャッターを下ろしている。いつもは、ビ
ジネススーツのハイヒールのOLが、肩で風を切って闊歩する通りである。
 今日は、さすがに人通りがない。閑散としていた。道元坂を、青山教会の方に歩いて登
る。右側の間口一間の小さな店が、おやじさんの古書肆だった。
 曇りガラスの頑丈な木の扉から、暗い通りに暖かい光が木枠によって四角に切り取られ
て、二つ漏れている。ほっとしていた。
 少し駅よりにあるフィギュアの専門店『キャロル』は閉まっていた。ぼくは、重症のピ
グマリオ(人形愛好症)でもあった。「旧世界」の美少女アイドルの36分の1とか24四
分の1という、超精巧なモデルを収集していた。人造皮膚があるので、眉毛までほんもの
そっくりにできている。楽しめるのだった。
 『再会』のおやじさんの丸井さんは、人柄が良い。骸骨のように痩せているが、丸眼鏡
の奥の目は、にこにこと優しかった。ぼくは、手提げ鞄の中に、三島龍彦の、身長社の文
庫本である『満ち潮』を入れていた。赤い表紙である。もう二百年前の本である。偶然に
二冊、手に入ったものの片方だった。全国にも、おそらく数百冊しか存在しない貴重な本
だった。なぜ、こんなものを持ち歩いているのかと言えば、ある理由があった。
 おじさんから、三島龍彦の本を探している女子中学生がいると、耳にしたからである。
面白いと興味を持った。
 現在は、書物も電子情報になっている時代である。原則的に、帝国図書館の、オンライ
ンのデータベースにアクセスすれば、日本で公開されている、現存するすべての書物に、
アクセスできる。所定の手数料を払えば、自分のプリンターから、一回だけだが印刷でき
る。
 「旧世界」の、主に恋愛小説の書物が、若い世代の女性の間で、ひそかなブームになっ
ていることは、ぼくもいろいろな機会に聞き知っていた。特に、三島龍彦のような、男性
同志の愛を扱った書物に、人気が集まっていた。ぼくの専門の一つが、男色の文学の研究
だった。男同志の愛である。
 『満ち潮』は、その中でも有名な一冊だった。高校生の少年が、年下の少年に、夏休み
の海で、フェラティオを実地に教える。単純な物語を、荘重な文体で語ったものだった。
海の潮が満ちてくる自然現象と、射精によって爆発する、少年の生理現象を、同一の現象
として語っているという点が、味噌だろうか。人為では、止めることができない、圧倒的
な自然力の顕現のようにして、精液が射出されるクライマックスが訪れる。
 これを熱心に探す少女というのは、こちらの想像力を刺激した。何となくだが、暗い陰
りのある、黒い髪の長い美少女という印象があった。
 ネットオークションでも、とんでもない高値を呼んでいた。なにせ、隕石ガイアの衝突
によって、日本の太平洋岸の大都市の大半が大津波の下に、水没する大災害の後で、生き
残った書物の内の一冊である。貴重品だった。三島龍彦は、中学生の少女の小遣いでは、
いくら本が好きでも、簡単に手に入る値段ではなかった。
 ぼくは、ある女子大学の大学院で、ある女性教授の助教授をしている。博士号を取る論
文の準備をしていた。日本文学を専攻している。その関係で、特に日本海側の旧家の蔵に
残っている蔵書の調査に、出張で行くことが何度もある、これは、そんな機会に偶然に手
に入ったものだった。二冊持っていた。
 一冊を相場からすれば、破格の安い値段で『再会』に売る。おやじさんには、手数料だ
けの儲けで泣いてもらう。見知らぬ少女の手元に入れば、『満ち潮』も、本望だろうと思え
た。ぼくの手元にあっては、もう読まずに、ただ書架に死蔵されているだけになってしま
う。ちょっとしたクリスマスプレゼントのつもりだった。それに、もし、それが縁で、本
好きの女子中学生と友達になれたら素敵だというような、スケベ心があったのも事実だっ
た。
 この頃の発育の良い女子中学生は、第三次性徴の発現によって、性的にもすでに成熟の
季節を迎えている。脱いでも凄いらしいという噂だった。でも、もちろん、クリスマスイ
ブのこの時間に、中学生が古本屋の棚を、覗きに来ているなんて、ありえない話だった。
 ぼくは、自分のロマンティックな妄想を、心で笑い飛ばしていた。『再会』のドアを開け
た。彼女が、そこにいた。いや、正確には少女のお尻があった。狭い書店の通路いっぱい
を、紺色のセーラー服のお尻が、丸いUFOのように占めて中空に静止していた。巨大な
肉の球体だった。ヒップは、二百センチメートルぐらいのサイズがあるだろうか。幅だけ
でも、一メートルはあるだろう。彼女は、床に両手と両足を付いて、下の方に積み重なっ
ている本を漁っているようだった。その姿勢からも、本好きだということが分かった。ス
カートは、最近の若い子の流行で、太腿の付け根のぎりぎりの位置にまで、カットして短
くしていた。
 つまり、しゃみこんでいると、上にあがったスカートのせいで、その下の尻の割れ目に
食い込んだ、紺色の小さな下着までが、丸見えになっていた。性器のもっこりとした形ま
で透けて見えていた。つるんとしたお尻が、剥出しになっていた。彼女が大きいために、
これらの光景は、ぼくの視線の高さに克明に展覧されていた。本の文字が読みやすいよう
に配慮から、この店は天井の照明が明るいのだった。
「おや、栗栖さん、いま、あなたの噂を、しておったんですよ」
 おやじさんは、穏やかなしわがれた声音でそう言った。彼女のお尻越しに、向こうから
挨拶をしてきた。
「えっ?」
 彼女が、振り向こうとしたのだと思う。ぼくは、その場所に凍り付いたようにして立っ
ていた。彼女と視線があった。
 それから、おそらく彼女は、自分のはしたない格好に気が付いたのだろう。いきなり、「き
ゃあっ」と小さな悲鳴が上がった。もう遅いのだが。
 お尻のスカートを、両手で下まで下げながら、立ち上がろうとしたのだ。ぐうんと空気
がうなりを上げた。
 大きく、大きく。ぼくは、彼女が、まっすぐに立ち上がろうとするのを、見つめていた。
上を上を見上げていた。
 大きかった。
 小さな古本屋の店の天井に、その黒髪の頭が、どしんと音を立ててぶつかっていた。蛍
光灯がぐらぐらと揺れて、上に溜まった埃をばらばらと零していた。身長は、三メートル
以上はあるだろう。
 白いブラウスは、彼女の胸のサイズからすると明らかに小さくて、きつそうだった。胸
のボタンが、はじけそうだった。冬でも、それ一枚で、下には、紺色のスポーツブラが、
くっきりと透けていた。胸元の影が、くっきりと黒く腹部に落ちていた。
 おやじさんの店は、間口が一メートル八十センチしかない。入ると、通路の両側に天井
まで、ぎっしりと本が棚に収められている。ぼくには、店内持ち運び自由の足台が必要だ
ったが、彼女ならば、どこにでも手が届きそうだった。きっちりと整理されてはいない。
おやじさんが、不精しているのではない。本人は、そう謙遜してはいる。が、古書を探す
楽しみは、ある程度乱雑な状態の中から、目指す一冊を探り当てる、宝探しのようなもの
である。そのことを、おやじさん自身が、分かっているためだった。
 通路は、狭かった。女性の体格にあうように設計されていない、「旧世界」の建築基準で
立てられていた。女性の立ち入りを、法律的にも拒否できる。建物をその身体で、損壊さ
せられる危険性があるからだ。それを許可してしまうのも、おやじさんの人徳だった。
 ぼくの視線は、彼女の太腿のもっとも太い辺りに、辛うじて届くぐらいだろうか。片足
だけでも、ぼくのウェストよりも太かった。素肌が覗いていた。つやつやとして光を反射
していた。肌理の細かい美しい皮膚だった。スカートの引き締まった腰の辺りには、目線
が届かないのは確かなことだった。
 左右に広がった。紺色の鳥の翼のようなスカートの裾は、通路の右から左までを塞いで
いた。太腿の間に、おやじさんの顔が小さく見えていた。ぼくは、彼女の足の間を、そん
なに苦労することなくくぐり抜けて、おやじさんの所までいけそうだった。太腿は素肌が
剥出しだったが、膝から下には最近また流行しはじめた、ルーズソックスを履いていた。
ローハイヒールの黒い革靴は、片方だけで五十センチメートルはあった。
 店内の空気は、暖房用のストーブの熱気で暖まっていた。少女の甘やかな薫りがした。
不愉快なものではない。青い植物のような、実りの秋に麦畑の中央に立っているような、
新鮮な命の匂いだった。これだけ濃厚に立ち篭めるためには、彼女は、かなり長い時間、
この古本屋にたむろしていたのだろう。
 ようやく、ぼくは彼女の顔を見た。狭い店内では、真下から見上げる格好になってしま
う。ぼくの頭上に、天涯のように張り出した、白いブラウスの胸の双ケ岡が聳えていた。
その向こうから、丸顔の可愛い顔が見下ろしていた。瞳がきらきらと光っていた。下唇が
厚くて、ぷくんと張り出していた。黒い大きな瞳が可愛い子だった。美少女といって良い
だろう。しかし、妙に大人びてもいなかった。十四歳と聞いていたが、これで年齢相応の
顔立ちなのだろうと思えた。
 「ノイエ・シブヤ」を歩いている子の中には、生活の荒れを示しているのか、これで中、
高校生なのかというような、目に険のある悪相をしている者がいた。
 この少女は、そうではなかった。見るからに健康そうだった。現在、まだ発展の途上だ
った。どこもかしこも、肉がはちきれそうに、ぷりんぷりんの子だった。頬が興奮のため
か、林檎のように赤い。ぼくは対照的に白桃のように真っ白だった、お尻を思い浮べてい
た。少女の幼い顔立ちが、まだ明らかに残っていた。ポニーテールというのも、その印象
を強めていた。
 互いに沈黙していた。何を話したら良いのか、分からなかった。おやじさんが、助け船
を出してくれた。
「栗栖二郎さん、こちらがあの三島龍彦の本を探していらした、お嬢さんですよ」
 おやじさんは、「く・る・す・じ・ろ・う」というぼくのありふれた名前を、一字一字区
切るようにして、ゆっくりと発音した。
「ああ、どうも初めまして」
 ぼくは、どう答えて良いか分からずに、頭を下げていた。
 それから、「く・る・す・じ・ろ・うです」と、意図的にゆっくりと付け加えた。自分の
名前を、売り込んでいるような気がした。
「あの、初めまして。栗栖先生。お噂は、丸井さんからいろいろと聞いています。山田ま
り亞と申します。天女中学校の二年生です」
 こちらも、丁寧に自己紹介をしてくれた。おやじさんの人徳なのだろう。初対面でも、
安心して話をすることができた。
2・ファーストフード店とスキヤキ屋
 ぼくはノイエ・シブヤの、喫茶店のファーストフード店の二階で、彼女と向かい合って
いた。店内は混雑していた。コーヒーは、薬罐で煮立てた黒くて苦いだけの汁だった。が、
飲み物に関しては気難しいぼくが、何も気にならなかった。男性専用の、例の前に階段の
二段ついた、椅子に座っていることにも、屈辱感はなかった。彼女と視線が、ほぼ同じ高
さになっていることへの、安心感の方が大きかった。あれから、すぐに店を閉めるという、
おやじさんに『再会』から追い出されていた。店内を、見る暇もなかった。それが、おや
じさんの配慮だということは分かっていた。彼の店を通れば、『満ち潮』の値段がさらに高
くなってしまうだろうから。後は、二人で宜しくやってくれという好意に満ちたサインだ
った。
 今、山田まり亞の手のなかに、三島龍彦の身長社の文庫『満ち潮』があった。彼女の手
のなかでは、文庫でも、豆本のようにしか見えなかった。指先の長い爪で、大事に大事に
半分日焼けして、黄色くなっているページを、そっとそっとめくる。その謙虚な姿勢に、
書物への尊敬の念と、配慮が感じられた。快かった。瞳がきらきらとしていた。相対的に
小さな活字を、熱心に目で追っていた。集中しているのが分かった。ぼくは、満ち足りた
気分で、黒く苦い汁を啜っていた。旨かった。
 周囲は、巨大な少女たちの、巨大な嬌声で満たされていたはずなのだ。満席なのだから。
しかし、後で、いくら思い返しても、この時には、二人以外の誰かがいたという、何の記
憶も浮かんで来ない。珈琲と、彼女が飲んでいるジンジャーエールの値段は、ぼくが払っ
たはずだ。が、席まで、それを運んで来たのは、どっちだったのだろうか。
 ぼくは、まり亞という少女の存在に、それほど夢中になっていたのだ。彼女のことをじ
っと見ていられるのは、楽しかった。やがて、上気したような頬をして、少女が「ああん」
と感極まったようなため息を立てた。自分の声の大きさに、目から覚めたようにして、我
に帰っていた。それから、ぼくと目があった。書物の世界から、現世に帰還したばかりの
者のとろんとした目だった。ぼくにも経験があるから、よく分かる。
「あ、あたし……?、ごめんなさい。栗栖先生。夢中になってしまって……」
「いいですよ。ぼくも、本が好きだから。あなたの気持ちが分かります」
「すみません」
「それよりも、その先生というの、やめてもらえませんか。ぼくは、君を教えていない。
だから、先生ではない。栗栖さんで、いいです」
「あっ。はい。スミマセン」
 彼女は、これで二回連続して誤っていた。その大きな頭が、ぴょこんと下がった。ポニ
ーテールが、ゆさゆさと揺れるのがおかしかった。 それから、またまり亞が、本に視線
を落とす間があった。
 ぼくは、口を開こうとした。 
「あのう……」
「あのう……」
 偶然、同じタイミングになってしまった。
「あっ、すみません」
 三回目に、まり亞が誤った。
「せん……、栗栖さんから……どうぞ……」
「君からで、いいですよ」
「いえ……、たいしたことじゃ。ないんです」
 彼女は、恥ずかしそうに、目線を落としていた。
「それじゃ、ぼくから……。その本ね。君に上げようと思うんです」
「えっ?」
 それから、自分は同じものを、もう一冊もっていて、二冊はいらないことを説明した。
今日は、それを君に渡すために『再会』にいったという話をした。すると、彼女の方も、
今日は、ぼくに会えそうな気がして、古本屋に来たことを告げた。嬉しそうな顔だった。
「ほらね。そうでしょ?だから、今日、君の手に、その本が渡ることは偶然ではないんで
す。長いこと本を探して、求め歩いているとね、本の方も、自分の主人となってくれる人
を求めて、長いこと旅をしているのだということが、分かってきます。その本は、君の手
元に行きたがっているんだ。だから、受け取ってください。分かるでしょ?」
「分かります。いいえ、分かるような気がします……。でも、あの、あたし……」
 ぼくは、彼女のことばを途中で止めた。最後まで、言わせたくなかったのだ。
「もちろん無料です。お金はいりません……ただし……」
 息を吸い込んで、すぐに言葉を続けた。まり亞の不安そうな目を見ていた。
「もしよろしければ、今晩、これから、ぼくと食事を付き合ってくれませんか。予定が空
いていればですけど……」
「……あたしは、ぜんぜん、暇です……。何時まででも、構いません……。家に帰っても、
誰もいません……。何の予定もないです」
「じゃあ、行きましょう。何が食べたいですか?」
「何でも!あたし、好き嫌いのないのが、唯一の自慢なんです!」
 椅子から立ち上がりながら、彼女が、もう一度、深く頭を下げてくれた。喜色満面の笑
顔というのは、こういうのを言うのだろう。
「先生、ありがとうございました」
 今度は、ぼくも訂正の必要を感じなかった。
 ファーストフード店を出たすぐ先の通りで、山田まり亞は、顔見知りの仲間にあった。
三人いた。みんな彼女よりも、優に頭一つ分大きかった。
 ぼくは、まり亞が同世代の女性の中では、小柄な方なのだとわかった。三メートル三十
センチぐらいかと、見当を付けていた。それでも、十分に大きかったが。一メートル六十
五センチのぼくの、ちょうど倍だったから。
 環境ホルモンは、女性を強く大きくしたが、男性は逆に弱く小さくしているようである。
二十一世紀には、日本の成人男性の平均身長は、一メートル八十センチに近い数値にまで
達していた。それが、今では、ぼくが、だいたい平均というところだった。
 まり亞は、食事に行かないかと誘われていた。パーティの計画があるらしい。楽しそう
だった。ぼくは彼女が、そちらに行っても、仕方がないと感じていた。おじさんと、食事
をするだけよりも、少女のクリスマスとしてふさわしい。華やかさのある話だった。
 一人は、ホログラム少女だった。先程の信号待ちの彼女と、同じ子なのかは分からない。
今度は、乳房の半球の上で、ピエロが踊っていた。群れとして区別できても、個性が明確
でないのが、この年ごろの少女たちの特徴だった。
 まり亞は、先約があるからと、断ってくれた。その上に、「デートなの」と、言ってくれ
たのだった。その時になって、長身の塔のように着飾った女性たちは、まり亞の背後にい
た、ぼくがいたことに、ようやく気が付いていた。何となく、紺色のスカートの帳の背後
に、隠れるような場所に立っていたからだった。
 ぼくは、彼女たちの視線の正面に、出て行かざるを得なくなっていた。まり亞の手が、
ぼくの背中を押していたのだった。
「こんばんは」
 ぼくは、律儀に彼女たちにも挨拶した。反応は賑やかなものだった。
「かわいい!」
「まあ、美形!」
「食べちゃいたいぐらいね!」
「ぼうや、歳は、いくちゅなの?」
「お姉さんたちと、遊ばない?」
「可愛がって、上げるんだけどなあ?」
 中には、「前の彼氏はどうしたの?」とか、「まり亞の相手とは、かわいそうに」という
ような、気掛かりな台詞が交じっていたが、ぼくは無視することにしていた。まり亞の好
意に応えるべきだった。
 一人がまり亞の武勇伝を、「彼氏」のぼくに話してくれた。ある日、ノイエ・シブヤの路
上。おとなしいまり亞は、周囲を、五、六人の男子高校性に囲まれていた。ボクシング部
だったという。いるのだ。自分の腕力を鼻に掛けて、武者修行にノイエ・シブヤに来る無
謀な輩が。弱そうなまり亞に、難癖を付けて、絡んで来たのだった。
「あのときのまり亞は、かっこうよかったなあ」
「そうそう、回転回し蹴り!!」
「いや、みんな、もうやめて!」
 まり亞が叫んでいた。ネオンサインの光の下でも、真っ赤になっているのが分かるよう
だった。
「違うよ、まり亞は三歳の頃から、クラシックバレーをやっているから、身体を回転させ
ただけだよ」
「でも、爪先が、見事に連中の金玉をキックしていたでしょ?」
「全員、悶絶して、救急車で病院行き!」
「正当防衛のまり亞に、おとがめなし!」
「そうそう」
「気分がすっとしたわ」
「色男さん!」
 ホログラム娘が、ぼくの方に屈みこんで来た。胸がずっしりと垂れていた。ピエロが悲
しく踊っていた。
「まり亞は、おとなしいけど、怒らせると恐いわよ!」
「いまどき、珍しい、ウブで、奥手の子なんだからね!」
「泣かせちゃ駄目よ!」
 友情に溢れる忠告を残して去っていった。ぼくは、ただうなずくしかなかった。迫られ
ると弱いのだった。本当に、身体が動かなくなってしまうのだ。
 三本の歩く広告塔のような少女たちが、大股に立ち去っていった後で、ぼくは大きなた
め息をついていた。
 ノイエ・シブヤのブティックのショー・ウインドウには、紺色のセーラー服のスカート
の裾に立っている、灰色の影のような貧弱な姿が映っていた。身長一メートル六十五セン
チで、体重五十キログラムのぼくは、大々しくて、堂々とした彼女の脇に並んで立ってい
ると、哀れなほどに小さくて、がりがりのやせっぽちだった。灰色の背広の上下に、黒い
ネクタイという格好の、狼のように逆立った黒い長髪も、何か、灰色の栄養失調の野良犬
のような、ひ弱さのみを強調していた。
 まり亞に「ぼくで良かったの?」と尋ねていた。
「ええ、いいんです!」
 まり亞はきらきらする瞳で、ぼくを見下ろしていた。
 その後、スキヤキの店に入った。もちろん人造肉である。本物は、安い月給のぼくの手
に余った。卵も葱も、遺伝子改良の技術によってつくられた人工のものだった。
 それでも、貧乏な大学の助教授の給料としては、大盤振舞だった。翻訳の印税を、今夜
は使いきるつもりだった。生活に困った時は、古書肆『再会』のおやじさんに、貴重な蔵
書の一部を買ってもらうつもりだった。
 彼女の喰いっぷりは、爽快の一語だった。箸に摘まれて、洗面器のような鍋に盛られた
肉が、みるみる彼女に咀嚼されていく。
 その間にも、まり亞は、ぼくから珍しい本の話を、いろいろと聞き出していた。聞き上
手な子だった。小首を傾けて、話に聞き入っている様子は、主人の一挙手一投足に気を使
う、忠実な犬ハチコーを連想させた。
 葱を数片摘んだだけで、後は、地酒のビールを飲んでいた。まり亞が、あまりにも小食
のぼくを心配して、自分の箸に摘んだ肉を、口元にまで持ってきてくれた。あ〜んして食
べた。
 彼女は、十キログラムの人工牛肉を、そのお腹に入れてしまった。すっきりとした顔を
していた。引き締まったブラウスのお腹にも、まったく膨らんだりするような変化はなか
った。人間の子ども一人分を、ぺろりと平らげて食べてしまっているのにだ。
 スキヤキ屋で、会計を済ませたことまでは覚えている。意外に安かった。若い女性達が
気軽に入って、大食いできる値段に設定してあるようだった。
 ノイエ・シブヤのクリスマスの色とりどりの雑踏の中に、足を踏み出してからのことは、
ほとんど記憶にない。どちらが誘ったのか。たぶん、ぼくなのだろう。まり亞と二人きり
で、暖かい個室の中にいたから。
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GIRL BEATS BOY